札幌開拓延命地蔵尊

札幌開拓延命地蔵尊

昭和5年(1930年)、当山はこの「札幌開拓延命地蔵尊」をご本尊として開山いたしました。素朴であたたかな姿のお地蔵様は、現在、本堂内陣正面右脇間に寺宝として安置され、札幌の街並みを見守り続けています。「開拓地蔵」として札幌開拓の草創期から人々に親しまれてきたお地蔵様の、これまでのあゆみをお話しいたしましょう。
お地蔵様の台座石には、「明治四年九月二十四日建立 石工 滝上増太郎」と刻まれています。札幌の開拓は始まったばかりで、まだ広大な原野が広がっていた頃のこと。創成川を基点に、東側と西側に区画され、現在の南1条通を中心の街道として札幌は発展していきましたが、当時の市街地は半径500メートル程度でした。そんな時代に、お地蔵様は、現在の南1条西5丁目あたりに建立されました。入植した人々が開拓の安全と健康を願うとともに、静かな町外れで道祖神(※注1)としての役割も担って建立されたと言われています。
その後、札幌の開拓はどんどん進み、市街地が発展するとともにお地蔵様も西へ西へと移転を余儀なくされます。しかし、お地蔵さまの行くところはどこも大きく発展を遂げることから、人々は「開拓地蔵」と呼んで親しみを増していきました。

一時的に首が失われたことから「首なし地蔵」とも呼ばれるように

一時的に首が失われたことから「首なし地蔵」とも呼ばれるように

明治4年(1871年)の建立から20年ほどたった頃、お地蔵様は南1条西11丁目に移されました。ここは、石山通として現在も交通量の多い主要道ですが、当時から通行人が多く、赤い袈裟をかけて立っているお地蔵様の前には、お供物が絶えなかったそうです。明治27年になると、付近の発展がさらに進み、お地蔵様は南1条西17丁目に再び移されました。
それから数年が過ぎた明治35年頃、お地蔵様の首がなくなっていることに人々は気付きました。以来、お地蔵様は「首なし地蔵」とも呼ばれるようになり、姿は変われど、引き続き地域の発展を見守っていきました。
大正6年には、お地蔵様は南1条西18丁目に移転。失われた首の代わりの石に頭巾をかぶせ、袈裟をつけた姿で立っていたといわれています。
やがてこの場所にも住宅や商店が増えたため、お地蔵様は大通西19丁目へ。この時に尽力されたのが、当時この町内に住み、篤志家として知られた小川直吉氏です。小川氏の呼びかけにより、お地蔵様のために小さなお堂を建て、お祀りすることになりました。このお堂はやがて「地蔵堂」と呼ばれるようになり、多くの人々に慕われていきます。
その頃、失われていたお地蔵様の首が見つかりました。新川の大改修の際に見つかったとも言われています。元の姿に無事、戻られたお地蔵様ですが、今も多くの檀信徒には「首なし地蔵」の呼び名で親しまれています。
なお、小川氏の社会福祉事業の先覚者としての偉業をたたえて、中央区大通西19丁目の養護老人ホーム「札幌市長生園」の敷地内には、「小川直吉翁頌徳碑」が建てられています。

移転した先々を発展に導き、多くの人々に親しまれて双子山の地へ

札幌開拓延命地蔵尊ようやく元の姿を取り戻し、お堂に納まることができたお地蔵様は、より多くの人たちに慕われるようになっていきます。お堂は「開拓地蔵堂」と呼ばれて信者も増え、昭和3年(1928年)7月には、小川直吉氏が発起人となって有志とともに寺院を新たに建立。浄財を募って完成した寺院にお地蔵様を祀り、手厚い法要を執り行いました。以来、7月24日を例祭の日と定め、現在も毎年、この日に「延命地蔵尊例大祭」を行っており、お地蔵様を祀るお堂や祠を飾り付けて、子どもから大人までが夏の訪れを一緒に楽しむ一日となっています。
そして、昭和5年、総本山智積院の末寺として開山。昭和19年からは、田中照純和尚が入寺し、同21年に本山より「地蔵寺」の寺号公称を承り、真言宗寺院として確立されました。
その後、市街地がさらなる発展を遂げる中で、建立地が札幌市有地であったことから、昭和31年には現在地へと移転。こうして、札幌最古の石佛地蔵であるお地蔵様はこの閑静な双子山の地に落ち着き、寺宝「札幌開拓延命地蔵尊」として、札幌の街の移り変わりを見つめ、今もあたたかなまなざしで守り続けています。
どうぞ一度、150年近くにわたって札幌を見つめてきたお地蔵様の姿をお参りに、当山へ足をお運びください。



(※注1)道祖神
集落の境や道の辻、三叉路などに祀られ、災厄の侵入を防ぐとされる神